五輪狂騒は終焉するか 近代スポーツ考(下)

▽想像のコミュニティー

見世物としての近代スポーツは同時に「想像のコミュニティー」を形成します。スポーツ競技の観衆は寄せ集めの偶然同じ観覧席に座ります。観衆はその場で、これまでのばらばらの個人ではなく、敵味方に二分され競技者と一体となる集団の一員となります。その集団とは競技の勝敗に無関心な中立的な存在ではなく、どちらか一方に肩入れする「応援者」「サポーター」なのです。勝利に歓喜し、敗北に打ちのめされる時空間をつかの間にも共有する仲間となります。

近代の都市社会においては、人々の絆がコミュニティーの衰退とともにうすれ、個人がばらばらに浮遊するアトム化の状態となっています。スポーツ観戦はそうした浮遊する個人が、勝利の歓喜、あるいは敗北の悲哀を共有する幻想集団に帰属することを意味しています。わが町、わが郷土、わが国を代表する選手への応援は、それぞれの地域への帰属と忠誠の意識を高めるのです。オリンピックあるいはワールドカップなどの国際競技大会は、世界を舞台とするナショナリズム発揚に格好の劇場となります。

ナショナリズムには、日本人なら無条件で日本を応援するはずだ、日の丸を背負う選手を応援するべきだ、日本が勝つことに期待するべきだとの暗黙の了解があります。そこには家族や親族、地域や仕事の同僚など中間的なコミュニティーを超越して、国家という大きな枠に吸い上げて同体化させる仕掛けです。その機能を促進させる道具として、国歌や国旗、ユニホームが考案されてきました。それは近代国民国家の成立とともに作られたものです。

報道メディアのほとんどは、国家から中立的な立場をとりえません。国家に帰属し、国家のために働くことをその存在理由としているからです。特に日本のメディアには、このナショナリズムがまるで空気のように普遍的かつ濃厚に定着しています。この背景には「みんな一緒」の日本人に強い同調圧力があります。誰でも同じように感動し、同じようにノルという「一体感」は、この十数年の間に特に強まってきた傾向です。

テレビ新聞雑誌など大衆報道メディアのほとんどは、無自覚的に相互に同調しながら、同調圧力を再生産して視聴者に無意識のうちに刷り込んで強制しているといっていいでしょう。メディアはどのような国際大会でも日本応援団の団長格となっています。特にオリンピックは別格です。五輪報道には各メディアは特別予算の臨戦態勢で血道をあげるのです。新聞はその紙面の大袈裟な扱いを、テレビは特番のデラックスさを競っておりのも、この幻想のコミュニティーへの一体感、つまりはナショナリズム発揚に同調しているからにほかなりません。

このメディアの大衆動員により、近代スポーツはナショナリズムの主要な促進手段となっているのです。国家対抗の主要舞台だからこそ、オリンピックはかくも人気を集めています。国歌斉唱と国旗掲揚は決して外されることはありません。

▽チャンピオンシップ

かくして、スポーツは「筋書きのない」ドラマを展開する大衆娯楽であり、国家への統合という極めて政治的な機能を併せ持っています。さらにコマーシャリズムと結びついて、巨大な利益とともに社会的な栄誉など、無形の財を生み出す経済行動なのです。近代スポーツがナショナリズムや商業主義との連携を強めているカギは、チャンピオンシップ(選手権)制度にあります。

近代以前のスポーツ競技は、小さな地域対地域、都市対都市との対抗試合が主流でした。しかし近代社会の到来とともに、ローカルな対決から範囲を拡大しています。村や町から大都市へ、さらに地域ブロック、国家、国家ブロックから世界全体と拡がりました。ほとんどの近代スポーツは、小地域から国家を経て世界へと段階的に上昇するチャンピオンシップの優勝制度に組み込まれています。その拡大振りは、近代的な国民国家による国際社会の成立と軌を一にしています。その最高の優勝者こそ、世界チャンピオンという最高の栄誉とタイトルを与えられるのです。

オリンピックでの金銀銅メダル授与制度は、最高の優勝者だけではなく二位、三位にも栄誉とメダル獲得者としての称号を与えるものです。つまり選手権制度の優勝者のみではなく、決勝戦の敗者にも「準優勝」という栄誉とタイトルを授与する制度の拡張版といえます。それは、ある意味では商業主義もしくは国家主義からの、チャンピオンシップ水増しの要請に沿ったものでしょう。競技種目や階級の細分化により、同一競技に複数のチャンピオンを誕生させる動きとも関連しています。それは商業主義およびナショナリズムからの圧力です。

世界最高の栄誉を獲得した自国人をチャンピオンとして祝賀することこそ、国家という想像のコミュニティーへの実感的な帰属意識をもたらしています。選手たちはたんに競技者ではなく国家の旗を背負う選手となるのです。かれらは国家を代表して国際舞台で外国と戦う戦士となります。そして世界を向うにまわして、母国に最高の栄誉チャンピオンシップの獲得をめざすのです。

金メダリストはこうして、国威を発揚した国民的な英雄とみなされます。その他のメダリストも準チャンピオンであり、準英雄でもあります。人気種目のメダリストたちはメディアに登場する国民の人気者となります。それは有名人として、商業媒体あるいは広告塔として、社会的な機能を併せ持つ存在です。金メダリストを育て上げたコーチや監督も、大きな社会的な尊敬を集めます。その影響力が経済利潤や政治的利害に連結する例も少なくありません。

次々とチャンピオンを生み出す選手権制度はそれだけではなく、大きな商業的な利益を生み出します。選手権とは、個々の勝敗ではなくシーズンを通して最終的に最高の成績をおさめた選手あるいはチームを表彰する仕組みです。選手権のシーズンあるいは大会期間中に、観衆の関心と興味は大いに盛り上がります。選手権制度は、広範囲の大衆的な人気を盛り上げ大規模な観衆や視聴者を獲得する仕掛けにほかなりません。

大衆的人気を集めるチャンピオン、あるいは人気の選手やチームに関連した商品の販売、イベントの開催、あるいは人気選手の宣伝広告などによる経済的利潤が大衆的レベルの数十万から数百万規模において獲得できるのです。プロのメジャースポーツは今や、世界規模での商業ビジネスとなっています。

▽スポーツメディアの役割

このビジネスを支えている重要部門のひとつが、スポーツメディアです。通信衛星による世界同時テレビ中継という画期的な制度が確立して以来、メジャースポーツとは世界中継される競技に限定されるようになりました。メディアの主要な役割は、消費者としての観衆の育成と動員にあります。なかでも重要な役割は、スポーツリタラシーの教育と祝祭の演出です。

たとえばスポーツ観戦の際には、競技のルールや観どころや勘どころ、競技の背景や位置づけ、ヤマ場などの解説が不可欠となります。しかしより重要なメディアの役割は、祝賀祭典としての宗教的な意味づけにあります。それは国民全員参加型の祝祭としての演出です。たとえば奇跡的な大逆転などの展開には、必ず超越的な「神」が降臨して国民的な神話・伝説が生まれる瞬間を演出するのです。

このように演出することにより、スポーツはこの瞬間「たかが」と蔑まれる遊びではなく、国家的な祝祭となります。本物の栄光と感動の物語が生み出される瞬間を、競技場および中継視聴者全員が共有し、記憶され真の伝説となるのです。メディアはこのスポーツ神話を繰り返し記録再生することにより、一方的かつ無謬の「歴史」を作り上げます。

特にスポーツメディアは、みずからの社会的な影響力および経済利潤の拡大の観点からも、演出の仕組みの持つ問題点の解明や批判にはまったく消極的となります。熱狂や感動の未熟さや薄っぺらの幼稚さ、精神や肉体を蝕む深刻な事態には目を瞑っています。むしろ祝祭的な熱狂を盛り上げる中心となります。近代スポーツのさらなる発展と拡大が、自らの利害に一致しているからです。

しかし、この構図自体も近代社会がもたらす、特異現象としてある限界症状を呈し始めています。「感動と勇気をありがとう」との物語は、しだいに飽きられ見直されているようです。スポーツエリートにすぎない運動家チャンピオンを、国家的英雄として偶像視することにも問題を感じ始めています。二期連続で金メダル獲得の柔道選手が、強姦などの破廉恥罪を犯すなどの例も、まだ記憶に新しいはずです。

それ以上に一部の近代スポーツでは、過酷な競争と鍛錬の連続に耐えられなくなっています。非常な努力と犠牲によって獲得された優勝や勝利に、あるいは金メダルにそれほどの価値が本当にあるのか、再検討もされつつあります。五輪やサッカーなど各種競技による世界選手権大会が、これほどまで世界規模で盛大に開催されるようになって、百年未満です。近代スポーツとはこの二百年、近代社会が生み出した特異な現象ではないでしょうか。その近代社会そのものが行き詰まりを強めてきたのに応じて、スポーツそのものも変質することはさけられそうもありません。

▽競争と闘争の近代社会

近代スポーツは近代社会とともに誕生し成長してきました。18世紀の後半から世界規模で展開した産業革命、民主革命、科学技術革命は、より強く、より大きく、より早くをめざす競争と闘争により推進されてきました。スポーツにおけるチャンピオンシップは、まさにこの競争と闘争の精神的かつ肉体的、また社会的、教育的、あるいは文化的な基盤と機能を促進する仕組みです。

スポーツはほとんどの近代国家により、その基本的な制度に組み込まれています。その中核がチャンピオン制度です。この制度においては勝利がもっとも重要とされています。遊びとしてゲームやプレーを楽しむことよりも、競争に打ち勝つことが何よりも優先されます。経済的成功と成長を確保するには、競争優先の勝利至上主義が欠かせないのです。

勝利のための努力や献身、規律やチームプレイの重視、創造性や指導力の育成こそ、近代産業社会がその構成員に要求してきた必須項目なのです。スポーツを通じ、近代社会は労働者の勤勉さを、エリート層のリーダーシップを育成してきました。同時にスポーツは大衆的な娯楽として提供され、社会的不満や反逆の芽を摘み取り、牙を抜いてきました。

近代社会の大きな特徴の一つは、あらゆる局面で競争と闘争が強調され、勝利と成長に成功が求められていることです。より強く、より大きく、より早くが社会的なスローガンとして、初期教育段階から至極当然の徳目として、子ども達から老人まで社会的に刷り込まれています。教育での受験競争から入学試験、各種資格試験、ライバル組織とのシェア争いが、普遍的な社会制度となっています。競争社会からの離脱の自由はありません。それは社会的な落伍者あるいは敗者との烙印を押されことを意味するからです。

この構図は、まさにスポーツの選手権制度と同じです。ごく一握りの優勝者と、大多数の敗者に区分けします。勝者には栄誉を、敗者にはさらなる努力や自覚や反省を迫るのです。しかしその背後では、多様な社会的病理現象が深刻化しています。過重なストレスによる精神的な健康を損なうことは、そのごく小さな一例にすぎません。

スポーツを利用した競争社会の最大の病理は、社会的な成熟を遅らせていることです。幼稚で未熟な熱狂や陶酔が、競争の重圧がさまざまな人格障害をもたらしています。競争や闘争の明け暮れにより、時間的空間的な資源が浪費されています。そして人間の精神にとってより重要な安定と静謐さが侵害されています。つまり人間の自由が侵害されているのです。その最大の病理は、無自覚なナショナリズムへの同調圧力です。

▽脱近代社会への展望

「近代」という時代は既に終っているのではないか。これが筆者の、目下の持論です。近代がもたらした急激な産業化、民主化、科学技術が、いずれも方向性を見失い行き詰まり状態に陥っています。2009年から続く欧米諸国での金融危機、議会代表制度や三権分立を柱とした民主政治の機能不全、社会的な停滞と分断など病理現象の山積、国民国家制度の衰退と迷走。これらの兆候は、近代の解体と機能不全を明示しています。

近代をもたらした「知能」と「力」への信仰が、揺らぎ始めています。その信仰は、未熟で幼稚な熱狂や均衡を欠いた極端さ、思い上がりや傲慢さ、落ち着きを欠いた狂騒、独りよがりの無反省さに由来しています。それはまさに、競争社会の実相なのです。それらは、この二百年あまりの「近代」がもたらした特殊な病理現象にほかなりません。自立し独立した個人の自由という近代的虚構による、際限のない得手勝手がもたらした世界でもあります。

人とは、それぞれの個体が数千万世代の生命連鎖の起源へと遡及可能な、きわめて貴重な生命を受け継いだ奇跡的な存在であります。そしてさらなる未来へ生命を引き継いでいく使命を負った存在でもあります。そうした生命の連続において、どの命も単独では自立も独立もあり得ません。それぞれの種のコミュニティーの一員であり、すべての生命コミュニティーの一員でもあります。

そうした宇宙的存在としての人類が、幼年期の見習い期間を脱して、この生命連鎖のなかで生き延びていくには、未熟な幼稚さからはるかに成長し、成熟していくほかありません。その過程で遊びとしてのスポーツ、個人的な楽しみとしてのスポーツは必然的に続けられるでしょう。身体や頭脳の運動や訓練は、どのような社会状況下でも必要不可欠な行為です。

しかし肉体や精神を酷使してまでの極限への挑戦は、そのうちに過去の歴史となるでしょう。近代スポーツがもたらした過度の熱狂や神話や伝説、経済的利益の獲得は、社会全体が幼年期を脱して成熟に向かうとき、次第に色あせた過去の記憶となっていくでしょう。

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